文脈は、壮語をかたるべからず
花の色を差して
錫の腑、
絞首縄の乾花
水瓶に並々とそそがれて
凝れる昏き窓縁に
象徴の死、
普く葬室に朽ちて在る
湖底、洞窟修道院
微睡める寓意
小麦十五デナリを測量し
劃して贖宥は愛の銭貨へ代替を遂ぐるも
なべては
人為
ならばこそ敢無くも赦されざるとしれ
虚飾の邸宅避雷針の容を聳ゆ
暴風雨
秒針の音、葉擦れ、雷霆
山嶺‐麓間へ蒸発、幽霊譚を伝承す
存在の証明
魂魄は水に
反撥せるか否か、
皮紙は皺と罅割れなほも生地の巖肌を指し示し
最早麻、麻酔管は生膚と為らず
旱魃、
蓬髪の狂婦よ
驕り散らし
荒寥へ歎き
半身樹、半身人体模造の容へ
夜毎昼を望みやらぬ
オウイディウス「人体樹」諸説より
混成的想像へ帰れ、
兄弟は背き遭う者と知らば
抽象美術協会に
展覧会に
偽造芸術、形而上的作為を欺き
実像の影の彩を燻る
反抗‐権威へ
従順ならばこそ
略奪を遵守するかのごとき
塵の華屑を献ぐ
都市伝承の死水を
取らば取れ、
孰れもゆるみづへとかへらむ
完新世の趣意に餓えて
nekodamasi666さんの詩は、いつもながら私には難しい。でも、最近、これらの詩は内容を一つ一つ解釈することよりも、音のつながりや韻を踏んで構成されていることを感じるほうが重要な気がしてきました。ある意味、歌のようなものなのでしょうか?
レスポンスを賜り、嬉しく存じます
私事ではございますが。先ずは現代短歌から創作、表現を始めました経緯がございますので。
音韻の方向に従って記述を致します様な、癖が在る様にも思われます。
いつ迄も一つの作風に固執をせず、種々の実験的表現へと踏み出す、意思を育む必要性を、今更乍ら実感致して居ります。
手癖にて認める様な、狭量な自己満足に何時までもしがみついていてはならない、と、理解はしているのでございますが。