そのホテルは海のそばにあって
むかしから 多くのモノカキが訪れるという
あの夜 僕はどうかしていた
長い闇のトンネルを抜けると
偶然ホテルのあかりが見えた
気まぐれに左に折れて車を停めると 生温い潮風にシャツが湿った 重々しく見えた扉はすんなりと開き
呼び鈴を鳴らすとフロントはこう言った
「あいにく今夜も満室となっております。
それでもよろしければどうぞ。」
軋む廊下を歩く
客室から聞こえる自慰の声々
恍惚とした部屋の隣は苦悩に満ちたもので
その向かいはどこか懐かしい声で唄い
とある部屋は異国の言葉で唸りを上げていた
磨りガラスの窓から部屋の中をうかがうと
いくつかの目が僕を囚えた
その夜 やはり僕はどうかしていた
手当たり次第 客室をノックして
代わる代わるそれらと交わった
途切れることがない 波の音を耳の奥で聞きながら それらのいくつかは 果てしなくつまらないものだったけれど 時には 波音が遠のくような
鋭く深いよろこびを感じるものもあった
ただ それらは一様にくちづけを拒んだ
夜更け
僕は中庭に降りてベンチに座った
月はなかった
ひどくたまらない気持ちになって
煙草を吸った
ふぅ、と吐いたけむりが立ちのぼって
ひとつの詩になってしまった
窓から誰かがじっと見ている
波の音は止むことがない
ここは海のそばのホテル
僕はもうすっかり正気なのだけれど
あれからずっと
けむりを吐き続けている
僕はもうすっかり 正気なのだけれどね
YUMENOKENZIさん 「月見ヶ浜」は架空の場所として書いたのですが、調べてみると実際にあって驚きました。昔、とある場所にあった「海浜ホテル」への憧れ、のようなものを込めてこの詩をかきました。コメント、嬉しく思います。ありがとうございます。
細川さん
“月見ヶ浜” がどこにあるのか調べると … 高知県の室戸岬にある一つの浜なんですね。
広大な太平洋に昇る月が、非常に美しいことから、月見ヶ浜と名付けられたのだとか。
あなたの詩は、この地に因んでいるのでしょうか … 本当にあるようで、無いような、ノスタルジックな名のホテルでの、ひと夜の物語に引き込まれていました。
モノカキの心の内側を垣間見るような、静かで神秘な詩の物語でした。