「ある王の妄言」
そこには、やつれた老人がいた。顔には皺が寄り、手足は骨と皮だけで構成されているかのように細く、自らの力では立ち上がることさえ不可能にみえた。そう、その老人は標準的な車椅子に座っていた。たるんだ皮膚の多さから、その男がかつては筋骨隆々の強靭な体を有していたことは想像出来る。しかし、この痩せこけた老人のどこからもその面影を感じ取ることは出来ない。ただ1点、真っ直ぐと未来を見据えるような、美しく力強い青色の瞳を除いては。
「王、我々のことを覚えていますか?」
老人の傍らに立つ1人の若い男……アンルガは、老人に尋ねた。
「……すまないね。」
「いえ、構いません。」
老人は、アンルガ達のことを忘れていた。かつて、自らが率いた最愛にして最強の軍団、その団員のことを。その回答に対してアンルガは、言葉とは裏腹にどこか寂しげな表情を浮かべる。しかし、誰もこの老人を責めることは出来ない。忘れることは、仕方の無いことだったのだ。アンルガの寂寥を感じとったのか、老人は僅かに口を開いて言った。
「私は、君たちにとって大切だったのかい?」
「……えぇ、とても。」
老人な口調はとても緩やかだった。無意識のうちにそれに合わせたのか、アンルガはいつもよりゆっくりと言葉を返した。
波が、揺らめいていた。2人は波打ち際に居た。本当は病室の片隅に置かれたベットの上、点滴に繋がれて寝たきりになっているはずのこの老人に、かかりつけの病院から100kmも離れたこの海岸まで出向くほどの余力があるとは本人を含め誰も思っていなかった。「人生の幕引きくらいは必ず望んだ形にする」と約束したアンルガに、最期はこの場所で飾りたいと言ったのは、記憶を失う以前の老人であった。
「ありがとう、青年よ。」
「いえ……貴方は、もっと多くを与えられるべきでした。しかし、出来なかった。この世界には、英雄を讃える余裕すらなかった。申し訳なく思います。」
「私が英雄、か……」
今までに、何度も言われてきた言葉だった。だが老人は、自分がどんなことをしたのかを思い出すことはできなかった。
「いいんだ、この景色を見られることが、私には手に余るくらいの幸せなんだよ。」
「……」
アンルガには、返す言葉がなかった。
暫しの間、沈黙が場を支配した。とても穏やかな時間だった。このまま死んでもいいと思えるほど、温かい空間だった。
しかし、何か引っかかる所があり、老人はもう一度重たい口を開くことにした。
「青年。少しだけ質問をいいかな?」
「はい、何なりと。」
「最期の時を望んだ形で終わらせてやると約束したのは君かな?」
「はい。その通りです。」
老人は、脳内で光った細い糸ような拙い記憶を丁寧に繰り寄せた。
「その時に、もう1つ、何か約束をしなかっただろうか?」
アンルガは、老人の言葉に僅かに狼狽えた。
忘れていて当然だと思った。この老人にとってはそれほど古い記憶だと分かっていた。忘れているならばそのままでもいいと、アルンガはそう思っていた。しかし、違った。老人は、記憶の奥底からその情報を何とか引っ張り出そうとしている。ならば、答えなければならない。それが酷なことになるだろうと分かっていても、答えざるを得ない。アンルガは決意を固め、口を開いた。
「はい、我々はあの時、もう1つ約束を交わしました。しかしそれは、貴方にとって想像を絶する苦難になるかもしれません。それでも、構わないのですか?」
「苦難、か……」
「えぇ、私は……正直に申し上げると、貴方はこの世界に対し十分な働きをし、報いてきました。もう、休んでも良いのではないかと思います。」
気遣うように発言したアンルガの目を、老人は見据えていた。老人は暫し思考をすることにした。波が、心地よい音を奏でている。太陽が傾き始めていたが、日が沈むにはまだかなりの時間があった。顎に手を当てて何かを考える老人を、アンルガはただ待った。
「……そうか、私の記憶か。」
アンルガは、目を見開く。
「貴方には驚かされてばかりです。」
「仕方のないことだ。生きてきた時間が違いすぎる。」
老人の返答は、実を言うと、少し的を得ていなかった。しかし、それは仕方のないことだった。
アンルガは、この老人がまだ幾分か若い頃に出会った時から今までに、何度も似たような衝撃を受けてきた。何度も驚かされてきた。自らの主人を侮っていたわけではない。それでも、このような姿になって尚ずば抜けた思考能力が残っていることはアンルガを驚愕させるに十分な事実だった。
「どのような思考のプロセスを踏んだのかは分かりませんが、仰る通りです。我々は貴方の記憶を必要としています。今際の際に立っているのを分かっていて尚、我々は最後まで貴方に頼らざるを得ませんでした。非常に不甲斐なく思います。」
「私のような老耄にまだ使い道があるなら、それは光栄なことだ。ただ、残念なことに私は、どうやら何も思い出せないようだ。さっきから何度も過去のことを想起しようと試みる。しかしそうすればそうするほどに、記憶はどんどんと遠のいていくのだ。まるで近づけば近づくほどに大きな壁があるようだ。」
心底無念そうに、悲しそうに呟く老人に、アンルガは緑色の液体が入った魔法瓶を差し出した。
「それは、必然のことなのです。貴方は世界を救う最後の戦いにたった一人で挑み、そして見事に勝利しました。」
アンルガはそこで何かを悔いるかのように意味ありげな間を置いた。
「……大きな対価を払うことによって。貴方は自分の人生を犠牲にした。それは貴方に関する殆どの歴史を奪い、そして貴方の寿命を奪いました。今となっては我々には、貴方が王であり、英雄であるということしか分からない。どうしてそうなったかも、何をしたのかも思い出せないのです。そしてそれは、貴方自身も。」
「……この薬は、その失われた記憶を取り戻す効果があるのか?」
老人は魔法瓶を受け取り聞いた。
「いえ、正確には違います。その薬は、貴方の全身を、細胞の隅々まで若返らせるものです。その薬を飲めば、貴方の体は一瞬のうちにあの戦いの直前の状態になります。そして今の会話や、貴方が目覚めてからの記憶はそのままに、貴方の脳は体に追いつくように徐々に全てを思い出すことに適切な状態にまで戻っていくはずです。」
「脳はすぐには戻らないんだな。」
「えぇ、恐らくは。脳は複雑な器官ですから。」
老人は頭上の太陽に魔法瓶を重ね、回したりしなながら薬を眺め、言った。
「……寿命を、使ったのか、君たちの。」
「……はい。よくお分かりになりましたね。」
気づかれるだろうとは思っていた。しかし実際に言い当てられると、どことなく言葉に詰まってしまう。
「この薬がノーリスクで手に入る物ではないことくらい、私にだってわかるさ。」
「使用にはそれなりのデメリットが伴うことも。」と、老人は続けた。
「申し訳ありません。我々のもつ技術をかき集めようと、それを補うことは叶いませんでした。」
「当たり前ではないか。それが可能ならば、既に人の範疇をおよそ超越している。」
もっともな言い分であった。アンルガは何も言わなかった。ただ老人の次の言葉を待っていた。波の音が一層大きくなって二人の耳に届く。
そこから、暫しの時間が流れることになった。会話のテンポは非常にゆっくりとしたものだった。それを煩わしく思う者は誰一人いない。ただ海を眺め五分も経った頃に、漸く老人は言葉を吐いた。
「……どれくらいだ?」
「……1時間ほどかと。」
「はは、思ったより長いじゃないか。」
短い会話の後、老人は魔法瓶の蓋に手をかけ、引っ張る。
キュポンッ
という小気味のいい音を立て魔法瓶は開いた。
それを口に近づけ、一寸手前で、少し躊躇い、青い、青い海と空に一瞬目をやる。これから起きる事象を本能で察し、老人は薬を一気に飲み干した。
それは、想像を絶する痛みなのだろう。アンルガはもがき苦しむ老人を見て、他人事のようにそう思った。目の前に転がっているのは歴戦の猛者であり、英雄であり、かつての世界最強である。にも関わらず、地に転がり、両手で首を抑え、反吐を履いている。自らが慕い、使える主に対し、何をすることもできない。並の者なら無力感に打ちひしがれて当たり前のところであろう。しかし、アンルガは優秀であり、決して並の者などではなかった。感情を制御する術を身につけていた。故に、何もできないことを理解し、諦め、ただ見守ることができた。
日が見上げずとも視界に映るようになり始めた頃、やっと老人は苦しむのをやめ、立ち上がった……
老人?いいや、違う。立ち上がった男は老人などではなかった。顔立ちは凛々しく、体は適度な筋肉と脂肪に包まれ、その立ち姿からはどことなく強者のオーラを漂わせていた。男は膝に手をつき、乱れた息を整え、汗を拭う。アンルガはその一連の動作を視認し、確信を得て跪いた。
「話と違うな。体は一瞬じゃ戻らないし、脳はいきなり若返ったぞ?」
「申し訳ありません。我々計算が甘かったようです。」
「おい……どうしたアンルガ……泣いてるじゃないか……」
見ればアンルガの頬には、涙が伝っており、目の周りが赤くなっていた。ただ見守ることができているというのは、アンルガの思い違いであったのだ。
「我らが王、貴方には語ってもらわなければなりません。」
「あぁ、分かっている。」
男の目は先程までよりさらに力強く、その目は真っ直ぐに、彼方の地平線を見据えている。アンルガは次の言葉を迷ったらしく、若干の間があった後、告げた。
「念の為、確認させていただきます。」
待ち望んだ瞬間。故に、何よりも丁寧に。
「自分が何者なのか、思い出せますか?」
「……あぁ。」
男は改めてアンルガの方へ向き直り、やや赤らんだ太陽を背に笑顔で告げる。
「俺は、ダンダリア・サンべルク。この国の王であり、唯一の歴史の観測者だ。」
ーーーーある王の妄言ーーーー
前略、下様
物語前半の無常観が一転、王の復活となって、東洋的な雰囲気から西洋的な趣を醸しつつ展開するストーリーは、混迷する現代社会が求める救いを暗示しているように思います。
復活した歴史の観測者が次世代に託す羅針盤は、どこを指し示すのか・・。
「歴史は韻を踏む」・・どのように踏むかは、今を生きる者たちが選ぶだろう・・その選択の苦悩が、人間の歴史そのものであることを、私たちは今まさに感じているに違いない。
物語は、絵空事ではない、現実そのものであることを知らしめる一篇です。